出典:『聖闘士星矢: Knights of the Zodiac』ティーザー予告編
Chapter1はこちら
前回、「聖闘士星矢は『熱き血潮の兄弟たち』の物語だからアンドロメダ瞬を女性にしたら成り立たない」と書いた。だが、これは最重要な設定という訳では無い。
実は聖闘士星矢のテレビアニメでは、青銅聖闘士の仲間は全員、城戸光政に拾われた孤児という設定になっている。流石に城戸光政が「ほぼ同年代の腹違いの100人の息子」を抱えるというとんでもない豪傑(ヤリチン)という設定はテレビアニメの枠を超越していて描ききれなかった・・・
なのでアンドロメダ瞬の女性化の最大の問題点は、この「熱き血潮の兄弟たち」の設定変更ではない。もっと多岐に渡って聖闘士星矢のストーリーを破綻させる致命的なバグなのだ・・・
早過ぎたテレビアニメ化がもたらした聖闘士星矢(アニメ)の悔恨
「えっ、星矢たちって実の兄弟だったの?」
アニメから聖闘士星矢を知って、後で原作を読んだ私のようなファンが最初に驚くのがここである。
ただ、この設定変更は放送コードという観点だけでなかった。当時の人気漫画の中でも聖闘士星矢はその面白さ、聖衣というキャッチ―さが受けて異常にアニメ化が早かった。原作のスタートが1985年12月なのだが、アニメの放送開始が1986年10月11日とわずか10か月の準備期間である。
あのドラゴンボールもアニメ化まで14か月かかっている、聖闘士星矢のコミックス第1巻の発売が1986年9月15日であると考えると、1986年10月11日アニメ放送開始がどれだけ異常な早さかがわかるだろう。そしてこの早過ぎるアニメ化が様々な設定変更の原因になっている。
アニメの制作に半年以上かかるという事を考えると、アニメの第1話には原作漫画の15話あたりまでに分かる設定を盛り込むのが精いっぱい。フェニックス一輝から星矢に「今こそいおう わが弟星矢よ!!」と城戸光政の真実を告げられるのが原作第5巻(1987年7月15日)なので、もうとっくにアニメは放送中である。
もちろん聖闘士星矢のテレビアニメは名作だ。この設定は変更しつつも、仲間の絆は十分に描けていた。なのでストーリー自体は破綻していない。そのため当時、聖闘士星矢のアニメを見ていて違和感を感じた少年たちはそれほど多くない。
しかし、この「自分たちを聖闘士にするべく人間扱いしなかった城戸光政が自分たちの実の父親」という真実は、フェニックス一輝が自分に絶望し仲間に反乱する動機になっている。それに既に書いたように「熱き血潮の兄弟たち」という単なる仲間以上の絆になっている。
この「星矢たちが実の兄弟」という設定でアニメを作れていたら、もっと話に深みが出たはずなのだ。
それだけではない。
アニメ放送開始後の原作、特に十二宮編ではジェミニのサガが教皇になりすましていたという真実が発覚したり、氷河の師匠が黄金聖闘士アクエリアスのカミュという事が発覚する。
しかしアニメはこの設定が間に合わず、悪の教皇アーレスという謎の人物が登場したり、氷河の師匠として水晶聖闘士が登場する。そのためアニメでは十二宮編のラスボスである教皇の設定がよくわかんなくなったり、アクエリアスのカミュとキグナス氷河の師弟対決という漫画史に残る屈指の名バトルの感動が薄れたりしている。
そう、聖闘士星矢ファンはどうせ現代にアニメ化をするなら「原作の設定をきちんと網羅したリメイク」を希望していたのだ。現代のCG技術とかは正直どうでも良い。
あの頃の聖闘士星矢のアニメに残っていた悔恨を取り戻しかたっかのだ。だから「熱き血潮の兄弟たち」の設定が描かれない事は裏切りというより、失望の感情だ。
ああ、ジョジョの奇妙な冒険のアニメ化が本当に羨ましい。。。
アンドロメダ瞬は女聖闘士になったが、仮面(マスク)を被っていない
なので「星矢たちが実の兄弟だった」という設定が変更される事は、まだ取り戻せるレベルだ。テレビアニメと同様に、しっかりと青銅聖闘士の仲間の絆の強さを違う形で描いてくれれば良い。
でも、「アンドロメダ瞬の女性化」は取り戻せるってレベルの設定変更じゃねー。
まず真っ先におかしくなるのが「女聖闘士は仮面(マスク)をつけなければならない」という設定だ。
これはもう聖闘士星矢にはお馴染みの設定だ。神話の時代よりアテナをまもる聖闘士は男子と決まっており、聖闘士の世界は女人禁制。そのため聖闘士の女子は掟で仮面をつけなければならない。
その掟は非常に厳しく、「マスクの下の素顔をみられた聖闘士の女子はその相手を殺すか…それとも…愛するしかない」というとてつもないものだ。
だが、これを時代錯誤と思うなかれ。アテナは女神なので、いつも周りを守護する戦士は少年だけなのだ。これは男女差別とかという話では無い、そういうルール、競技なのだ。
これにケチをつけるのは、キャプテン翼も新アニメが放送されているが「登場するプレイヤーが全員男子なのはおかしい。女子サッカーも普及しているのだから岬くんを女子に変えるべきだ」と言ってるようなものだ。
聖闘士が女人禁制でなければならない理由は完全には明かされていないが、私の解釈はこうだ。アテナは武器を嫌うため、聖闘士は素手で闘わなければならない。そのため肉体の戦闘力で劣る女子は戦いから遠ざけようとアテナが配慮しているのだ、と。
実際、ポセイドン、ハーデス、アルテミスと言った聖闘士星矢に登場する他の神々は眷属に仮面をつけていない女子が普通にいる。
しかしアテナの聖闘士の女人禁制が厳しいルールだからこそ、それを守る女聖闘士がマスクを外すときに数々のドラマが生まれている。
しかしティザー予告のアンドロメダ瞬(女)は全くマスクを付けずに戦っている。しかもそれを全然きにするそぶりもない、強気な女子という感じだ。これではアンドロメダ瞬が女聖闘士になってマスクもつけずに戦うという設定変更は全く女性に配慮できてない。逆だ。男の世界で必死に戦っている女性を侮辱するものなのだ。
致命的に破綻するストーリー (1) 「星矢と魔鈴さん」
このように、アンドロメダ瞬が女聖闘士になると「女聖闘士のマスク」の設定がおかしくなってしまう。この結果、聖闘士星矢を彩ってきた数々の名シーンが全く成立しなくなってしまう。これこそが致命的な矛盾であり、完全にストーリーが破綻する理由だ。
そのストーリー破綻の例を挙げて行こう。まず「ペガサス星矢が探し求めている生き別れた姉の正体」である。
主人公である星矢が聖闘士になって戦う動機は、実の姉である星華を探すためである。そして作中、イーグルの魔鈴という女性の白銀聖闘士が星矢の師匠として登場する。この魔鈴さんが「実は星矢の実の姉(星華)ではないか?」という疑いが出る。しかし「仮面をつけているため正体がわからない」のだ。
星矢自身も魔鈴さんが実の姉ではと疑い、魔鈴さんが気を失っている間にマスクを外して素顔を見ようとしたりする(未遂に終わるが)。これは聖闘士星矢の最終巻でようやく成果の行方が明らかになるという、作中最大の伏線になっている。
ティザー予告の魔鈴さんはマスクを被ってはいるが、その意味合いがアンドロメダ瞬のマスクをつけない女聖闘士化によって薄れてしまっている。これでは魔鈴さんはもちろん、主人公の星矢のキャラも一緒に死んでしまうのだ。
致命的に破綻するストーリー (2) 「シャイナさんの星矢への思い」
次に、星矢にマスクの下の素顔を見られた女聖闘士がいる。それが白銀聖闘士オピュクスのシャイナである。
シャイナさんは原作の第1話から登場し、星矢のライバル関係にある聖闘士だ。そんなシャイナさんが聖闘士の掟を破り、星矢に素顔を見られてしまう。
その結果、シャイナさんは星矢を殺すのではなく愛してしまう。そんなシャイナさんの献身的な愛が十二宮編やポセイドン編で星矢たちを救う事になる。
やはりマスクの意味合いが薄れれば、ストーリーの軸になる「シャイナさんの思い」も薄れてしまう。それはやはりシャイナさんのキャラも死んでしまうのだ。その結果、ポセイドンに勝利する事もできなくなってしまう。地上は大津波に飲み込まれ、人類は海の藻屑である。
(シャイナ)
なぜおまえをつけねらうかしりたいか星矢…
神話の時代よりアテナをまもる聖闘士は男子ときめられていた いわざ聖闘士の世界はアテナをのぞいては女人禁制なのだ
だから女子が聖闘士の世界にはいるときは女であることをすてさるため自らの顔にマスクをつけられるのさ
そう聖闘士の女子にとってマスクの下の素顔を他人にみられることは裸をみられた以上に屈辱的なことなのさ
星矢 おまえははじめてわたしの素顔をみてしまった男…
聖闘士の女子にとって素顔をみられた男にはふた通りの方法しかのこされていないのさ
その相手を殺すか…それとも…愛するしかないのさ…
フッ で…でも星矢にとっては迷惑だよね… あ…あたしなんか……… あたしなんかがおまえを愛したりしたら… だ…だから…
ああ…星矢 こうしていると感じるよ おまえの小宇宙が・…
星矢の小宇宙はとてもあたたかくてやさしい…
どうだろうか、これも何度見ても泣きそうになる聖闘士星矢屈指の名シーンだ。このシーンの意味が薄れるだけでも許しがたい。何より、ここまで献身的にシャイナさんが星矢を愛するからこそポセイドンに勝つ事が出来るんだから。
(全然関係無いけど、星矢とシャイナさんがアイオリアのサイコキネシスで病院の外に飛ばされる時のシャイナさんのお尻がもの凄いエロい)
致命的に破綻するストーリー (3) 「カシオスが魅せた男の覚悟」
そして、星矢を愛してしまったシャイナさんだけど、そんなシャイナさんを愛する男もまた存在する。
それが原作第1話で星矢とペガサスの聖衣を巡って争ったカシオスである。カシオスは美形キャラでもなく、第1話でボロ負けして星矢の強さを表現するためだけに登場したようなモブ(車田正美作品でお馴染みの雑魚キャラ顔)であった。
カシオスはその戦いで左耳を失っており、聖闘士にもなれず、二度と登場すらしないと思っていた。しかし、そんなカシオスが男を魅せるシーンがある。
それが十二宮編のレオのアイオリアとの戦いである。アイオリアとは星矢が戦っていたのだが、殺される寸前まで追い込まれてしまう。シャイナさんはそんな星矢を自らの命を捨てて助けに行こうとする。だがそれを止め、代わりに戦いに赴くのがカシオスだ。
カシオスは死ぬ程に星矢を恨んでいるのだが、それ以上にシャイナさんを愛しているのである。そうしてカシオスは己の命と引き換えにアイオリアとの戦いを終わらせる。他の男を、それも自分が最も憎んでいる男を愛している女性のために自分の命を差し出して死んで行くカシオスの最後はこれもまた聖闘士星矢屈指の号泣シーンである。
(カシオス)
シャイナさん おさない頃にあなたにであい指導をうけられたことはこのカシオスにとって幸福でした…
数すくない聖闘士の女子の中でもあなたの戦闘能力は男顔負けのものでした
でもやはりあなたは女の人…
このカシオス シャイナさんには生きて幸福をつかんでもらいたいのです…!
ペガサス星矢「カシオス な…なぜ!?」
カシオス「フッ だからいっただろう 目の前で人ひとり死なんかぎりアイオリアの目はさめんと…」「それにおまえが死ぬとかなしむ人がいるんでな…」
ペガサス星矢「エ…?」
カシオス「別におまえのためにやったことじゃない その人がかなしむことのほうがオレにとっては一番つらいことなのだ…」「オレにとっての女神とはあの人のことなのだ…」
やっぱりこのシーンの意味が薄れるだけでも許しがたいのだ。このカシオスの死によって、星矢は小宇宙の究極・セブンセンシズに目覚めている。敵が強いからではなく、友の思いを、友の命を背負うから強くなるのが聖闘士星矢の主人公たちなのだ。
まだまだ有る。アンドロメダ瞬の女性化による作品の破綻
私は別にアニメ化・実写化をするときは「何もかも原作通りにやれ」と言っているのではない。ただ「原作の魅力を殺してしまうような『改悪』は止めてくれ」という事だ。
そして、聖闘士星矢のアニメ化に際してアンドロメダ瞬を女性化するのは、原作の最高に面白いストーリーを台無しにする改悪なのだ。
そして付け加えるならば聖闘士星矢は過去にも何度もアニメ化されているが、まだ原作に忠実なアニメ化は無い。どうせアニメ化するなら、原作の魅力を最大限に発揮する事こそが「新しいアニメ」だと思う。
聖闘士星矢に限らず、そんな魅力を殺したアニメ化・実写化が面白い作品になるはずが無い。結果的に売り上げも落ちる。製作サイドとファンと、Win-Winの提案なのだ。
さて、アンドロメダ瞬の女性化による作品の破綻はまだまだこんなものじゃない。
次回は瞬の兄であるフェニックス一輝と、瞬本人のキャラクターの破綻について語りたい。
Chapter2 The End
Next Chapter3…
参照:聖闘士星矢: Knights of the Zodiac、『聖闘士星矢: Knights of the Zodiac』ティーザー予告編 – Netflix [HD]、Netflix版「聖闘士星矢」で“アンドロメダ星座の瞬”が女性化 ファンの批判に脚本家「全員男性には違和感」、Wikipedia 聖闘士星矢