出典:「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」公式twitter
大晦日の風物詩になった「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで! 絶対に笑ってはいけない」シリーズ。2017年は「絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時」だった。
この番組の冒頭では、ダウンタウンを始めとした5人がその年のテーマに沿ったユニフォームに着替える。そして、浜ちゃんだけは「特別なユニフォーム」に扮装し、最初の爆笑をさらっていくのが恒例だ。
今回の浜ちゃんは「ビバリーヒルズ・コップ」のエディ・マーフィのコスプレで登場した。1人だけ全く違う、しかも「あの」浜ちゃんが黒人俳優になって登場したんだからそのギャップに大爆笑であった。
その後に仕掛け人として登場した山崎賢人や門脇麦も浜ちゃんを見ると笑ってしまい、上手く笑いを仕掛けられなかったほどだ。
しかし、年が明けるとこの浜ちゃんのモノマネを「黒人への差別表現だ」「差別の意図が無かったとしても問題だ」「番組サイドは知らなかったでは済まされない」として大バッシングの嵐である。
批判している人たちの言わんとする事もわからないではない。しかし、その人たちの言動にはどうしても納得できない所がある。
黒塗りメイクを批判する人は、全く気にせず笑っていた人は「差別者」「無知」であり人として劣っていると言っているようだ。批判している人こそ他人を差別していないか?
「私が差別された」「私が不愉快だった」という意見が無い
私はもちろん、テレビを見ていた日本人の多くに黒人差別をする気持ちは全く無い。だから浜ちゃんのモノマネを見たときに何の違和感も感じず、ただただそのギャップに爆笑した。
そもそもバラエティで黒塗りメイクが出るなんてこれまでに幾らでもあった。ノッチのオバマ大統領のモノマネ、「細かすぎて伝わらないモノマネ」で有名になったEE男山口たかしはエディ・マーフィを始め、様々な黒人のモノマネをしている。古くはラッツ&スターが全員黒塗りメイクでお茶の間を席巻していた。
なぜ「人権派」の皆さんは突然に突然黒塗りメイクを問題にしたのか、その意図はさっぱりわからない。だが、理屈はこうである。
・1950年代、アメリカではブラックフェイスという黒人差別のショーがあった
・浜ちゃんの黒塗りメイクはブラックフェイスを想起させる恐れがある
・「差別の意図は無かった」「知らなかった」では済まされない。大勢の人が見るテレビ番組なのだから、批判の声が上がる可能性を考慮し、慎重であるべきだった
という所である。
全くといって「私が差別された」「私が不愉快だった」とは言っていない。「不愉快な人がいるかもしれない」としか言っていないのだ。まるで自分たちが気に入らないニュースに対して、「波紋を呼びそうです」「批判を招きそうです」「議論を呼びそうです」と捨て台詞を吐き、実際の批判の声を喚起したい偏向マスコミのようではないか。
黒塗りメイクへの批判からこそ差別を感じる
つまり、浜ちゃんの黒塗りメイクを批判している人は「差別された悲しみ」「差別という理不尽」に寄り添い、改善しようとしているのでは無い。何か別の目的があって、世論を喚起したいのだろうと推測できる。
では批判している人は何が目的なのか?
こう考えていた所、池田信夫さんのブログにヒントを頂いた。
まず明らかなのは、差別の中身には意味がないということだ。肌が黒いことも、国籍が日本ではないことも、その人が劣っていることを意味するわけではない。だから民族差別は不合理だ、とポリコレ派は考えるが、これは誤りである。差別の意味は、他者を排除して自己のアイデンティティを作り出すことにあるのだ。
そう。苛烈な黒人差別が法律レベルでも存在していたアメリカでは、黒塗りメイクは黒人差別を意味するだろう。しかし、日本にはそんな歴史は無い。黒塗りメイクは、ただ顔を黒くする事。それ以上でもそれ以下でも無い。
しかし黒塗りメイクを差別だと批判する人は、無頓着な人々を何の法律、条例にも違反していないのに「人権意識が足りない」と蔑んでいる。
まるで黒塗りメイクに無頓着な人々は劣った人であると主張し、、テレビ番組や表舞台から「排除」しようとしているようだ。そうして自分たちこそが「差別に敏感な優れた集団である」とマウンティングし、アイデンティティを築いている。
何てことはない、差別を批判している人こそが差別しているんじゃないか。
無くすべきは「差別表現」じゃなく「差別心」でしょ
特定の表現を「差別」であると糾弾し、排除していく事は今に始まった事では無い。「ブラックジャック」とか昔の漫画は差別用語だらけで、現在では修正されている。発行当時のセリフを見る事はもうできない。
だが、そんな「差別用語」「差別表現」を無くして、本当の差別が無くなったのか。21世紀になった今でも原発事故を理由に福島県の方を貶める発言を繰り返す人を見たり、「福島から転校したらイジメられた」「福島の人との結婚が反対された」なんて話を聞くと、全く変わっていないよう感じる。
かつての部落差別、在日外国人差別、男女差別などは減っていると思うが、それ法整備を始め、多くの努力により人々から「特定の集団、属性を下に見る」心が無くなって行ったからだ。
そう、無くすべきは「差別表現」じゃなく「差別心」である。
例えば、黒塗りメイクは黒人差別の「手段」の1つでしかない。黒人差別の心がある限り、黒塗りメイクを廃止しても別の手段で差別されるだけである。
例えば、黒人は採用しないとか黒人をイジメるとか、黒人の方々の名誉、利益に関わる本質的な問題は何も解決しない。人々の心から「黒人は劣った人種である」という認識を消す事こそが、黒人差別を無くすという事ではないか。
黒塗りメイクという黒人差別が完全に無くなる未来とは、黒塗りメイクが存在しなくなる事では無い。黒人の方を含めて、誰も黒塗りメイクを問題にしない事ではないか。
今回浜ちゃんの黒塗りメイクを批判する人の発言からは、そういう本当に差別を無くそうという気持ちを感じなかった。ただただ、笑っていた私たちを「無知」と蔑み、自分たちが優れているとアピールしているだけに感じた。
「絶対に笑ってはいけない」シリーズは、番組で言っているように「大晦日に笑い納めをして、気持ち良く新年を迎える」ための番組だ。面白ければ腹の底から笑い、ストレスを発散し、元気になる。それはとても平和的な行いだ。
お笑い番組から表現を奪うのではなく、もっと大勢の方が笑えるような社会を目指して行く事こそが差別を無くして行くという事だと思う。
参照:「黒塗りメイクは世界では人種差別行為だ」、今度は『ガキ使』黒塗りメイクが物議…なぜ差別的表現が繰り返され、擁護されるのか、『ガキ使』“黒塗り”に日テレ「差別の意図なし」と回答も…ハフポスト編集長「モノマネでも許されない」理由、ガキ使『黒塗り問題』に、松本人志「言いたいことはあるけど、面倒くさいので浜田が悪い」